昭和45年12月06日 夜の御理解



 先日の薬院の先生のお説教の中に、「愛の心」または「慈悲の心」についての説明があっとりましたですね。「愛の心」と言うのは人を相手を責めないという心が愛の心だと言っておられました。確かにそうだと思うですね。相手を責めない心それが「愛の心」である。ところが私共の場合は相手を責めなければおられない。「どうしてお前、そんな事するのか」と「お前は、どうしてそんなのか」とこう相手に「どうして」を付けるわけですね。で、信心の一つの、これはまぁ、進め方なんですけれども。
 相手に「どうして」と相手を責めねばならない様な時には、相手を責めずに、自分自身を責めよ、とこう言われるわけですね。ですから、なるほど自分というものを改めていく事に、限りなくそこに、焦点を置くわけですけれども。本当の事を言うたら、相手を責めんで済み、また、自分自身も責めんで済むほどしの、それが本当の愛だと思いますね。ですから過程です。
 だから、相手を責める前に、自分を責めよと言う間は、言わば、なんと言うですかね、稽古中とでも申しましょうかね。ある意味で、そこんところの稽古が出来たら、自分を責める事もいらないと思うですね。相手ももちろん責める事もいらない。そういう心が私は本当の愛だと思う。そういう愛を、私は求めていくのが信心だと思うですね。おかげを頂いて、一つも責める気になれない。
 責めんどころか、何かそれがもう、かわいそうでかわいそうでたまらんという様なね、あの、様な心なんです。ですから、自分も一つも責めんでいい。私はこの、仏教が慈悲を説く。言わば、キリスト教あたりは愛を説くわけですね。お道では「真」とか「真心」とかと言われて来たですけれども、実際は、お道ではね、神心だと思うですね。仏教の慈悲に、慈悲または、慈悲審判とか。そすと、キリスト教の愛の心と。
 ただそれを一つにしても、もっと大きい感じがしますね。お道の信心の「神心」というのは、今も申しますように、相手を責めない心が愛だと言う、責めないだけじゃないんです。責めない、責めにゃおられないような人の場合を、気の毒じゃなぁ、かわいそうじゃなと言う神心なんです。これが私は本当の事だと思う。まあ完璧な愛の心と言うのはそんなもんじゃないかと思うですね。
   どうぞ。